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額田王・人麻呂の世界
─万葉時代の三輪山・巻向─



   三輪の風景ー清原和義が見た万葉の風土ー


(ラジオウォーク万葉にて)


 平成九年(一九九七)六月九日、武庫川女子大学教授・清原和義氏は水鳥が飛び立つように、あわただしく旅立ってしまわれた。享年五十八歳。あまりにも早い旅立ちに、残された者たちはただ茫然とその姿を見送るより他はなかった。

 研究室に残って仕事をして疲れた時など、私は清原氏が写された写真を見て、心慰められることが多かった。どの写真もすばらしい万葉風土が展開していた。周知の通り、日本の最古の歌集「万葉集」には、北は東北から南は九州まで、日本の各地・風土が千数百カ所も歌に詠まれている。その風土を清原氏はくまなく映像にとらえていたのである。こんなに日本の風景は美しかったのかと、ため息が洩れるばかりであった。

 プロの写真家ならばまた違うアングルがあるかも知れないが、清原氏の写真は万葉歌を熟知し、万葉風土をこよなく愛した人でなければ撮れない、現代日本の風景の中に眠っている万葉の魂を呼び起こすような写真ばかりであった。

大森亮尚氏『万葉風土ー写真で見る万葉集ー』の「あとがき」より 


君が御影のおもほゆるかな
─清原和義先生追悼─


 高岡市にたいへん縁のある清原先生が平成九年六月九日にお亡くなりになった。前年の高岡万葉セミナーの折のご講演「旅と舟と」で元気なお姿を目にしたばかりなのに、まさに「いかさまに思ほしめせか」で、突然の訃報にただ驚くばかりであった。
 清原先生は平成八年に『萬葉集の風土的研究』という研究書を上梓された。丹念に隈なく万葉の風土を歩かれた先生の研究は、それぞれの風土に立ち、その風土を包む自然・気候に目を据え続けたものだ。しかも、たんなる万葉地理についての考察をほとんどなさらなかった。つまり、あくまでも風土「的」研究であって、故地をたずねた実際やその土地土地の臨地調査がじかに論を支えているようなものではなかった。すばらしい研究だと思うし、いろいろと勉強になる。だからこそ、先生の専門書上梓は長く望まれていたようで、故犬養孝先生のうち出された万葉の風土研究を継承しながら、さらに発展を遂げて新たな研究段階に進んだ名著だと絶賛した書評もあった。その一年後の訃報である。
 この著書に寄せた犬養先生の序文に「万葉の故地を歩く上で、この人ほど徹した人は稀であろう」とあった。だからなのだろう、いつも日焼けした顔で学会に参加されていた姿は絶対に忘れられない。
 もちろん全国有数の万葉故地である高岡市にもよくいらっしゃって、「ラジオウォーク万葉」は平成元年の第一回目から毎回参加されていた。そこでいつも目にした、一緒に歩く周りの人々に気さくに説明される姿は、万葉愛好家のさらなる広がりに尽力されてきた先生の姿勢のあらわれにちがいない。だから、『万葉 ことばの森』『万葉の旅人』『万葉空間』など、広い読者層を意識してわかりやすく万葉の世界を語りかける名著の端々にもそのような先生の人柄があふれ出ているのだ。

(新谷秀夫記)



清原和義がみた万葉の三輪山・巻向
写真パネルの解説



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◆大和国中をのぞむ写真(清原和義撮影)

 古事記によると、ヤマトタケルはまさに死が近づいたとき、大和を偲ぶ歌を詠んだという。

  倭は国の真秀ろば たたなづく青垣 山籠れる倭し麗し

 大和は国の中でももっともよいところだ。重なりあった青い垣根のような山々、その中にこもっている大和は美しい。ヤマトタケルの目には、きっとこの写真にあるような大和の国中が浮かんでいたことだろう。
 また、万葉集の二番目にある舒明天皇の歌は、香具山から大和の国を眺めた時の歌だ。「うまし国そ 蜻蛉島大和の国は」 ああ、いい国だ。大和は。舒明もまた、大和の国中のすばらしさを歌い上げている。

  天皇、香具山に登りて望国し たまふ時の御製歌
大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし国そ 蜻蛉島 大和の国は (巻一・二)

大和には 群山があるが 特に頼もしい天の香具山に 登り立って 国見をすると 広い平野には かまどの煙があちこちから立ち上っている 広い水面には かもめが盛んに飛び立っている ほんとうに良い国だね (あきづ島) この大和の国は

 本来の大和は、今でいう奈良盆地の中南部という限られた場所だった。まさにこの写真に映る大和三山を中心にした地である。そして、この大和の国魂こそが三輪山だったのだ。
 三輪山は、大和国中とそこに暮らす人々をいつも見守り続けていたにちがいない。




額 田 王 

 額田王について語る唯一の史料は、『日本書紀』の天武天皇紀に見える「天皇、初め鏡王の娘額田姫王を娶りて、十市皇女を生む」だけである。出自・生没年は未詳であり、その名前から王族であったと推測されるが確証はない。
 万葉集から、近江朝を中心に活躍した歌人であることはまちがいない。また歌数一二首ではあるが,万葉第一期の歌人としてはもっとも多く、わが国最初の専門的歌人の風貌があると評されることもある。

  熟田津に船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな  (巻一・八)
  あかねさす紫草野行き 標野行き 野守は見ずや君が袖振る  (巻一・二〇)

 天皇の思いを代弁して詠んだ歌(八番歌)や、文芸性豊かなみやびな世界をテーマにした歌(二〇番歌)など、さまざまな作品を残した額田王については、「代作歌人」(橋本達雄)「御言持ち歌人」「遊宴の花」(以上伊藤博)「詞人」(中西進)などの言葉が冠せられている。


◆三輪山を遠景する写真(清原和義撮影)


  額田王、近江国に下る時に作る歌、井戸王の即ち和ふる歌
味酒 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際に い隠るまで 道の隅 い積もるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放けむ山を 心なく 雲の 隠さふべしや (巻一・十七)
    反 歌
三輪山を 然も隠すか 雲だにも 心あらなも 隠さふべしや (十八)

   右の二首の歌は、山上憶良大夫の類聚歌林に曰く、「都を近江国に遷す時に、三輪山を御覧す御歌なり」といふ。日本書紀に曰く、「六年丙寅の春三月、辛酉の朔の己卯に都を近江に遷す」といふ。

綜麻かたの 林の前の さ野榛の 衣に付くなす 目に付く我が背  (十九)

   右の一首は、今案ふるに、和ふる歌に似ず。ただし、旧本にこの次に載せたり、故以に猶し載せたり。


 六六七年三月十九日、はじめて都が大和の地から離れることとなった。近江遷都である。そのときに詠まれた歌が、万葉集の巻一に残されている。
 いままさに大和を離れる一行の目の前で、雲が三輪山をおおい隠した。三輪の神が怒っているのだ。そこで、額田王が「せめて雲だけでも思いやりがあってほしい、どうか三輪山を隠さないでおくれ」と歌うこととなる。
 三輪山は古くから大和を代表する山として崇められてきた。この山の魂を鎮めることは、そのまま大和への惜別を告げることにつながったようだ。だからこそ額田王は一行の思いを代弁するように、いつまでも三輪山を見ていたいという思いを歌い上げたのだ。
 この額田王の歌に応えるように井戸王の歌が続く。古くからこの地で語られてきた伝説をふまえつつ、三輪山に向かって「目にしみついて仕方ない愛しい人よ」と呼びかける。恋人に呼びかけるようなこの歌もまた、三輪の神の魂を鎮めることになったにちがいない。
 ふたりによる絶唱は、三輪の神の魂を鎮める役割を十分に果たしたようだ。一行は無事に近江の大津宮へと遷都することができたのである。


人麻呂と人麻呂歌集 

 万葉第二期を代表する歌人である柿本人麻呂には、題詞や左注に人麻呂作と明示された歌が八四首ある。とくに持統天皇の吉野行幸の折の讃歌(巻一・三六〜三九)や、皇子たちの死を悼んで詠んだ挽歌(巻二・一六七や一九九など)のような宮廷儀礼歌を多く残した人麻呂は、万葉集を代表する歌人として長く評されてきた。
 万葉集全二十巻のうち九巻(巻二・三・七・九・十・十一・十二・十三・十四)に分散して採録された「人麻呂歌集」は、この人麻呂みずからが編集した「歌集」であると考えられている。歌数は約三七〇首。人麻呂の歌が大半を占めるが、他人の作も少し含まれている。
 人麻呂歌集をめぐっては、表記の多様性、短歌や旋頭歌を定型化しようとする営み、さらには和歌を分類した痕跡など、その和歌史に果たした役割の大きさが確認されてきた。人麻呂歌集は、たんに万葉集編纂に使用された資料のひとつであったのではなく、おそらく編纂そのものに大きな影響を与えた歌集であったのだろう。


◆桃の花と三輪山の写真(清原和義撮影)

 春山は散り過ぎぬとも三輪山はいまだ含めり君待ちかてに (人麻呂歌集 巻九・一六八四)

 人麻呂が舎人皇子に献じた歌の一首である。

  春山の花はすっかり散り果ててしまったかもしれませんが、三輪山だけはまだ蕾のままです。あなたのお出でを待ちあぐねて。

 この歌は、男女関係を比喩的に詠んだ歌だとする考え方が強いようだ。「春山」(世の女たち)はみな他の男のものになったようだが、「三輪山」だけは神に仕える巫女のようにうぶなままで、あなたを待ちあぐねています。宴席などでの戯れ歌であるとする解釈である。
 しかし素直によむと、山々の花はすべて散ってしまったけれど、三輪山だけがまだ蕾のままであなたが見に来るのを待っていますというだけの歌である。神の宿る三輪山。花も神が大事に守っているにちがいない。三輪の神はあなたが来るのを待っていますよ、さぁ出かけましょう。人麻呂は皇子を花見に誘っているのでは……


◆巻向山の写真(清原和義撮影)

 三諸のその山並に児らが手を巻向山は継ぎの宜しも (人麻呂歌集 巻七・一〇九三)

 三輪山にほど近い巻向の地は、柿本人麻呂とその妻が暮らしていた場所かとされてきた地である。

  三輪山のその山並にあって、いとしいあの子の手を枕くという名の巻向山は並び具合がたいへん好ましい。

 「三諸」とは神の住む場所のことで、この歌では三輪山を示す。神の住む三輪山に対して、巻向山がしっくりと連なっている。その姿に感動した人麻呂は、巻向山を導く枕詞として「児らが手を」と歌いおこす。
 いとしい恋人の手を枕く(枕にする)ように並ぶ巻向山と三輪山。おそらく人麻呂の目には睦まじい夫婦のように見えたのだろう。人間の気息を感じさせるこの枕詞には、巻向山に対する人麻呂の愛着が見てとれる。いや、もしかすると人麻呂は、このふたつの山に妻との睦まじい生活を照らし合わせているのかもしれない。


◆弓月が岳の写真(清原和義撮影)


 痛足川川波立ちぬ巻向の弓月が岳に雲居立てるらし (人麻呂歌集 巻七・一〇八七)

 万葉集には巻向の地を詠んだ歌が十七首ある。そのうちの十五首が「人麻呂歌集」の歌であることからすると、人麻呂と関わりの深い地であったことはまちがいない。しかも人麻呂歌集の歌には、巻向の自然そのものを歌ったものが多いのだ。

  穴師の川に今しも川波が立っている。巻向の弓月が岳にきっと雲がわき上がっているにちがいない。

 吹きわたる風のなかで人麻呂は川波を見つめている。その風に吹かれながら、彼は弓月が岳にわき上がる雲の気配を感じ取った。川と山が連動して動き出す一瞬の姿を歌い上げたこの歌は、巻向の自然を見事に集約しつつ表現した名歌とされてきた。
 人麻呂がのちに詠んだ荘重な響きを持つ長歌の世界は、適度な緊張感をもって歌われたこの巻向の自然のなかで培われていったのではないかとさえ思われてくる。


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