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山辺の道の万葉歌碑の紹介


写真家入江泰吉の書の歌碑


 三輪山の山辺ま麻木綿短木綿かくのみ故に長くと思ひき (高市皇子 巻二・一五七)

 額田王の娘十市皇女が急逝した悲しみを詠んだ高市皇子の歌である。

  三輪山の麓に祭る真っ白な麻木綿は短い木綿だな。
  こんなに短いものだったのに、私はいつまでも長くと念じていたのだ。

 三輪山の神に長命を願っていたふたりだったが、祈りもむなしく皇女は死んでしまった。ふたりが夫婦であったのかは、わからない。しかし、この歌には、妻をなくした悲しみにうちひしがれる夫の姿がにじみ出ているような気がする。

 奈良を撮り続けた写真家入江泰吉の書になるこの歌碑は、桜井市車谷の路傍にしずかに立っている。

アララギ派の歌人鹿児島寿蔵の書の歌碑

 あしひきの山川の瀬の鳴るなへに弓月が岳に雲立ち渡る (人麻呂歌集 巻七・一〇八八)

 人麻呂歌集にある、巻向の弓月が岳を詠んだ歌である。

  巻向の山並みを縫うように流れ来る穴師川の瀬音が鳴り響くのにあわせて、弓月が岳に雲が立ちこめてゆく。

 響き渡る川音を耳にしながら、弓月が岳を見上げる人麻呂。その眼前で、今まさに雨雲が山をおおい尽くそうとする。なんの飾り気もなく、あるがままに巻向の自然をとらえたこの歌は、人麻呂歌集のなかではむろんのこと、万葉集のなかでも名歌の誉れが高い。
 写実写生に長けたアララギ派の歌人鹿児島寿蔵の書になるこの歌碑は、桜井市車谷の地で巻向の山々を見つめるように立っている。

日本画家堂本印象の書の歌碑


 味酒三輪の祝が山照らす秋の黄葉の散らまく惜しも (長屋王 巻八・一五一七)

 奈良時代のはじめに活躍した長屋王が、まだ藤原京に住んでいた若いころに詠んだ歌である。

  大神神社の神職たちが慎んでお守りしている三輪山を照り輝かしている秋のもみじ、そのもみじが散ってしまうのが惜しまれてならない。

 大和の国魂である三輪山の「山照らす秋の黄葉」のすばらしさは、若き長屋王の心を動かしたようだ。「散らまく惜しも」という表現をはじめて使ったのも、その美しさに対する素直な感想だったにちがいない。
 文化勲章も受勲した日本画家堂本印象の書になるこの歌碑は、大神神社のしずかな境内に立っている。

国文学者久松潜一の書の歌碑


 三諸は 人の守る山 本辺には あしび花咲き 末辺には 椿花咲く うらぐはし 山そ 泣く子守る山 (作者未詳 巻十三・三二二二)

 宮廷に残っていた古い歌謡を集めて編まれたと言われている巻十三にある歌である。

  三諸は人が大切に守っている山だ。麓のあたりには馬酔木の花が咲き、頂のあたりには椿の花が咲く。まことにみごとな山だ。泣く子さながらに人が守っているこの山は。

 「三諸」は神の住む神聖な場所で、三輪山もまたそのひとつである。春の花々が咲き誇る山を、人々は大事に守り続けてきた。三輪山はそのような山だったのだ。
 万葉集研究でも著名な国文学者久松潜一の書になるこの歌碑は、桜井市桧原井寺池のほとりにしずかに立っている。

川端康成の書の歌碑


 大和は 国の真秀ろば たたなづく 青垣 山籠れる 大和し麗し  (古事記 ヤマトタケルの歌)

 古事記に見える、ヤマトタケルが死を迎えたときに、大和を偲んで詠んだ歌である。

  大和は国の中でもっともよいところだ。重なりあった青い垣根のような山々、その中にこもっている大和は美しい。

 奈良盆地の中南部、大和三山を中心とする国中と言われている地が本来の大和だった。国の中でもっとも美しいとされた大和の地。その美しさは今なお、訪れる人々の心に感動をもたらし続けているにちがいない。
 ノーベル文学賞作家川端康成の書になるこの歌碑は、桜井市桧原井寺池のほとりで大和の国中を見渡すように立っている。


棟方志功刻 万葉歌碑拓本


 この万葉歌碑は、奈良県桜井市箸中車谷に昭和四十七年十一月に建立されました。
 板画家棟方志功の手になる万葉歌碑は非常にめずらしく、たんなる歌碑と違って、上部には風景画も刻まれています。
歌は、巻七の人麻呂歌集の歌(一〇八七番歌)を万葉仮名で記しています。

           柿本人麿 痛足河 河浪立
             奴 巻目之 由槻我高  
                  仁 雲居立有良志
                    棟方志功書  
 
   痛足川 川波立ちぬ 巻向の 弓月が岳に 雲居立てるらし

   (訳)穴師川に川波が立ってきた。巻向の弓月が岳にきっと雲が立ち上っていよう。


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