はじめに

 柿本人麻呂は、『万葉集』を代表するのみならず、日本文学史をも代表する歌人である。
 天武朝に歌人としての活動をはじめ、続く持統朝には行幸に従駕して天皇を讃える歌を詠んだり、皇子たちに歌を捧げるなど、公の場で歌を詠むようになる。
 その持統朝とは、日本最初の都城である藤原京が営まれた時代でもある。人麻呂は藤原京の建設を目にし、そこで生活したことは間違いない。そして、平城京遷都を見ずに亡くなったと考えられる。
 このような人麻呂は、平安時代以降「歌の聖」として崇められ、やがて「歌の神」となる。
 人麻呂が実際に生きた時代と、人々の中に人麻呂が生きていた時代を比較していただきたい。

柿本人麻呂

 生没年経歴等一切不明。
 『日本書紀』『続日本紀(しょくにほんぎ)』などの史書にその名は見えないが,『万葉集』に残された歌によって、持統朝から文武朝に活躍したと考えられている。『万葉集』の編さん資料のひとつとなった「柿本朝臣人麻呂歌集(かきのもとのあそみひとまろかしゅう)」には「庚辰(こうしん)年作」の七夕歌があり,天武9年(680)頃には歌を詠んでいたことはわかっている。
 歌の内容からその生涯はさまざまに語られているが,想像の域を出ていない。『続日本紀』和銅(わどう)元年(708)の記事に見える、従四位下(じゅしいげ)で没した柿本朝臣佐留は,人麻呂の近親者と想像されるが,その関係はまったくわかっていない。

 人麻呂は、神話の時代から脈々と続く歌謡の伝統と漢詩文の影響を統合したと言われる。そうした表現は、行幸に従った時の歌や皇子たちの死を悼んだ挽歌など,宮廷にかかわる長歌形式の儀礼歌に多くみられる。
 妻との関係を詠んだ石見相聞歌(いわみそうもんか・巻二・131〜139)や泣血哀慟歌(きゅうけつあいどうか・巻二・207〜216),さらに自らの死をめぐって詠まれた自傷歌群(じしょうかぐん・巻二・223〜227)なども,宮廷サロン的な場の要請に応えてよまれた「物語」的な歌ともいわれている。
 経歴は不明ながらこうした歌が残っていたために,人麻呂の人生は平安時代初期から伝説化していったのである。

人丸神像  

 現在「富山県民会館分館内山邸」として広く知られている旧内山家の敷地内には,昭和36年(1961)に台風で倒壊するまで,人丸像をまつった祠(歌神社)がありました。展示した「人丸神像」は,その人丸像の複製です。
 神社の創建は江戸時代の明和6年(1769)で,明和二年に内山逸峰(うちやまはやみね)が石見国高津の人丸明神まで参拝に行った折り,現地でもらいうけた柿の枝を京都で人麻呂像に彫らせてまつったのです。
 明和6年は,賀茂真淵(かものまぶち)が亡くなった年で,その名著『万葉考』は前年に印刷刊行されたばかりでした。
 すでに『寛永版本』や北村季吟『万葉拾穂抄』,契沖『万葉代匠記』などは世に出ており,明和8年の江戸滞在の折りのメモには,書店で見た値段が記されています。
 しかし,おそらく逸峰は,当時の「歌書」や「名寄(なよせ)」で『万葉集』の歌を読んでいただけであろうと考えられています。

 鴨山の 岩根の小松 
    我をかも 知らでや千代の 緑栄ん


 逸峰が記し残した人麻呂歌ですが,他のどの文献にも見られません。どこかでひとり歩きした人麻呂の歌なのでしょう。
内山邸人丸神像(複製)
 
  
◆内山逸峰著「草稿 西国道記」より
 逸峰が石見国の柿本神社に詣でた時の長歌および反歌には、逸峰の苦労する様子や喜ぶ様がこまやかに叙述され、人丸神像の由来が語られている。

  明和二つの年長月四日、石見国美濃郡戸田村、柿本御社にまうで奉りける時の短歌。御誕生所也。

はるばると 思ひ越路の 旅人の 海山多く 過渡り さはりもなきは 
千早振 神の助けに あらざらばいかでかはとぞ おもほゆる 
いでや名高き 石見のや 高角山の 神がきに 五日よるひる 宮籠り 
比しも秋の 半過 磯うつ波と 松風と 声うち添て よそならば 
秋の淋しみ 有べきを 所がらとて 我身には 只糸竹の 調べとも 聞なしぬれば 
うば玉の よるもすがらに たのしみの 心は更に よの人の 思ひはしらじ 
御姿を 拝まばやとて 思ひたち 己が宿りし 高角や ふもとの御寺 
朝霧と ともに立出 小松原 分行程に 朝彦も ほのぼの見えて 
秋ながら 影うららかに さしのぼる □□とかに はてしなき 浜の真砂路 
是や此 よむともつきぬ ことのはの 道のしるべや 
あし引の 山を南に 北はうみ もろこし迄も つづくなる 
うらもはるかに 思ひやる 心の内の ながめこそ 詞に出て 
よしあしを 何とか人に 石見潟 高角山に つづきたる 持石木阿弥 
ふた村を 越ゆればこれぞ 戸田の里 顕はれ出し 
御姿の 宮居いづこと 尋れば そことしられて かたらひが
家に立より 此神の をさなすがたを 拝まんと いへど中中 ゆるさねば 
かさねていたく たのみしに 秋田かる身の いとまなみ 
鶉衣を ぬぎかへて すがたそぞろに あらためて 鑰やうの物 取出し 
御社へゆき 御戸開き 拝めば高津に かはりなき 老の御姿 おはします 
わきにたたせ 給へるは 年の比ほひ 五か六つ 程にも見えて 
立すがた 此御神の いとけなき 御身をぞたて はごくみし 
かたらひふたりが すがたをも 作りすへつつ 
右左 わけてぞならべ 置にける 
さて夫よりも かたらひが 家に帰りて 筆柿を 一つたべよと 乞ければ
其柿の木は 昔より おのが苑にて 栄えしが 
近き頃より 枯にけり 其あとよりも ひこばへが 又生出て 若木ゆへ 
このみのことは 持あはず さらば何とぞ 筆柿の 枝のはつれも あるならば
えさせよかしと たのみしに わづか斗の 枝一つ 
あたへし事の うれしさよ 都に帰り 御すがたを 
きざみて世世に 敷島の 道の守りと 仰ぎ見んかも


    反歌

言の葉の 道栄えつつ 柿本 かたらひてゆけ 千とせ万代

かたらひが 垣の内に 御はかの 有を教へければ 拝み奉るとて

尋ねきて 何と言葉も いはみがた 名高き人の 奥の山ざと

たどりきて 袂も裾も 露草に 己がなみだや 置そはるらん


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